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3Tohei's Lonely Hearts Hatena BLOG

超中学生級の能力を誇るサラリーマン研究者の脳からだだ漏れしてきた呻き声を記録したログデータです

3tohei's Lonely Hearts Web Site 別館

原価厨に必要なのは「リュウを使う勇気」

下の記事を見て、昨日の昼飯と「リュウを使う勇気」の意義を思い出したという話。

 

b.hatena.ne.jp

 

いや、昨日、つけ麺のかなり美味しい店に行きまして、そこでの太麺がなかなか絶品。うどんくらいの太さがあってモチモチ感の太麺。で、ふとしたはずみで、海苔に巻いて麺を食べたのですよ。
美味っ!
人生40年も生きて、ようやく知ったのですね、海苔の存在意義。あ、そうかラーメンに海苔が入っているってこういうことなのかと。今まで海苔単独で食べてたよ、海苔に巻いて麺食べるとこんなに味がよく合うのかと、ラーメン不勉強すみませんでしたと。私の中でのラーメンのトッピングランキングは味玉が群を抜いて一位だったのだけれど、いきなりいい勝負の二位につけてきたぞと。
これは、次にこの店に来た時には海苔を増量するか?と。

 

ところが、ここで僕の脳のよからぬ部分、経済学エージェントが囁いた。
「でも、海苔ってラーメンのトッピングで、一番原価低いんじゃ無かったっけ?」
僕の脳の経済学エージェントは、基本的に原価厨。自分の行動が「経済的合理性にあっているか」という観点で、ほんまでっかTVの先生方のように無駄な知識に基づいてうんちくコメントをするおせっかい。

あーそうか、とひるんだ僕に、別のエージェントが囁いた。
最近入ったオスカーワイルドのエージェント
“Nowadays people know the price of everything and the value of nothing.”
― Oscar Wilde, The Picture of Dorian Gray

 

つまりまあ「price=価格」は他人の決める値段。

「value=価値」は俺が俺のために決める俺価値。

「昨今のバカは、すべてのものについて価格だけ知ってるけど価値は知らねえ」とのオスカーワイルド語録。相変わらず切れ味鋭い。

俺価値が、他人価格に負けていいのかと。
俺価値ってのは、そんなに低いものなのかと。

 

で、「リュウを使う勇気」という話を思い出したわけです。

四半世紀もの間、格ゲー界頂点に君臨する梅原氏が出した、一度別れたリュウに戻る理由~自分で決めたと思っていたことが、そうでなかったと気付いた 

pc.watch.impress.co.jp

 

現在のストリートファイター5は、2016年12月のバージョンアップで、それまで梅原氏がメインに使っていたキャラクターのリュウが相対的に弱くなった。そして、氏がサブで使っていたガイルが強くなった。普通なら強くなったサブキャラをメインにする。プロならなおのこと、実績も求められるし、周囲の期待もあるため、1%でも勝率が上がるキャラを使うべきだ。

(中略)

理屈なら、リュウを選ぶのはとんでもない行為。なぜ、わざわざ勝ちづらいキャラでやるのか?

(中略)

梅原氏が再度リュウを使うのは、それと同じ理由。ガイルは全部を持っている。だが、その全部持っているというのは、他人が決めたこと。学歴が高い方が良いと言うのは、人の価値観だ。人の価値観に合わせて、自分の感情を押し込めるのは愚かなことだ。

 

そういうことだ。なんかを極めた人は良いこと言うね。
「合理的でない選択」だけが、自分が何者であるかを定義づける。

*

この前読んだ「ゆかいな仏教」(Amazon Unlimitedでただ読みしたのだが...)で、大澤氏が「消極的自由」「積極的自由」という便利な概念を引用していた。

イメージとしては、私の部屋にたくさんのドアがあると。どこから出ても良いと。

  1. あるところから出ると、バカな結果にたどり着く。(休日の1日をグダグダ過ごすとか)
  2. あるところから出ると、生産的な結果にたどり着く。(勉強して発見するとか)

「間違ったところから出るのも自由」と考えるのが「消極的自由」
「正しい結果にたどり着く自制を身につける」のが「積極的自由」

真に欲望すべきことを欲望し、真に望むべきことを望む。
意識の高い「経済的合理性」なんてのは、典型的な「積極的自由」だろう。

だけど、
人々のやっていることの大半がつまらないこと、低俗なことに見えたとしても、消極的自由を確保することに徹するべきだろう・・・というバーリンの議論が引用がされていたわけです。

ごもっとも。

「積極的自由=ただ一つの正解」

という世界は、尊敬に値するが、生きていくのが息苦しい。

 

*

だからここで

「海苔で巻いた方が<本当は>合理的だから、海苔で巻く」
という話にラーメン議論を帰着させちゃったら、やっぱり「積極的自由」のつまらなくてうるさいお説教フレームワークにまた引きずられる。それは「たったひとつの正解」を争う最適化ゲームの駒になることだ。

 

でも、かといって、全く外の世界を何も見ないで「俺の気持ち」だけを探ろうとしても、そこには何もない。外と繋がらない意識なんてものは、サイコロ同様の意味のないランダムだからだ。最適解にもあらず、ランダムにもあらず、その間を漂う。時に外を見て学び、時に中を見て受け流す、仏教だったら「半眼」っていうんですかね。

 

まあ、機械学習なんかでやってるシステムもそういうことなんだろうと思う。外だけ見て動いている原価厨的エージェントは、つまらないローカル最適解にはまってすぐに動けなくなる。外を見ないエージェントはどこにも辿り着かない。

 

時に合理的に、時に非合理に。
まあ、ようするに、適当に生きましょうねってことだ。